お茶の歴史 NO2

南北朝の末に登場をみた宇治茶は急速に名声を高めていく。天下に知られた宇治茶も、14世紀ごろまでは拇尾の茶を本茶と呼ぶに対して非茶と呼ばれていた。宇治は天下一の茶産地となり拇尾に代わり本茶の地位を固める。当時の宇治茶は贈答品としてもてはたされた。

江戸時代、幕府が使用する宇治茶は毎年幕巨が使者となって宇治から江戸城に運んでいたこれを宇治採茶使と称し、俗に御茶壺道中と呼ばれたものである。現在の宇治市街の大半は幕府が直接管理していた。宇治は元来水陸交通の拠点として首都京都攻防の要塞として、政治極めて重要な位置にあったが伏見城の新設によってその位置は後退したにも関わらず依然といて幕府が直轄した背景に宇治のみ許された覆い下手法による、

全国に比類のないてん茶の産地という特殊性にあったと言える。

1738年宇治田原湯屋谷の永谷宋円が、
現在の煎茶製法を創製した。その後、
この製法が全国に普及していったのである。
全国各地が宇治製法にかわりつつあったころ、
宇治では覆下茶園から摘採した茶芽を宇治製法によって
煎茶とする試みが行われていた。ここに誕生するのが玉露である。
1835年、江戸の茶商、山本翁が宇治の焙炉場で
偶然生み出したと言われている。その後、維新の変革により
将軍家と宇治茶師との関係が絶え、さらに茶道も一時衰退し、
てん茶の需要が減少した。この時、
宇治の茶業者・辻利兵衛が玉露製法に手を加え、
現在のような細伸、鮮緑なものにした。

機械による製茶が行われはじめたのは、明治29年頃で、
高林謙三による製茶機械の発明後である。
機械が導入された当初、精揉機の性能が大変悪く、
中揉みまでは機械で行い、その後は手揉製法で加工された。
手揉製法の重労働とほいろ師の人件費の高騰、さらには、
機械の改良により手揉製法は衰退していった。

明治初期、宇治市・京都市周辺には、京都府の約半分の
1300ヘクタールの茶園があったが、時代の経過と共に
茶園面積は減少の一途をたどり、現在宇治市内には
100ヘクタールを下回る状況にある。しかしながら、
宇治市の茶は品質において現在においても日本一であることは
全国の茶品評会等で証明されており、今後も生産者や茶商工業者
のたゆまない努力によってその名声は引き継がれるものと思われる。