碾茶炉
明治37年から大正3年における碾茶の生産方法は、基本的には安土桃山時代と変わっていない。茶の木は在来実生、栽培は覆い下栽培、摘採は手積み、蒸は手蒸し製造は碾茶路での手製、販売は葉売り、という同じ形が安土桃山時代の天正年間から大正時代まで、約350年以上続いてきたことになる。現在の碾茶生産方法は、茶の木はほとんどが品種である。栽培は覆い下栽培だが、簡易の直かぶせが増加している。摘採はほとんどがハサミ刈で、手摘みは減少している。蒸はすべてが機械蒸である。製造はほとんど堀井式碾茶機械による機械製である。販売はすべて挽き売りである。というように大正末から現在にかけての80年間でガラッと変わってしまった。一番最初に変わったのは製造である。玉露や煎茶の摘み茶を見てみると、手揉みは現在の機械製茶の原点であるということで、手揉み保存会がつくられ、手揉み技術の伝承のため講習会、技術会が全国各地で行われている。しかし、手製碾茶の保存会は全国に一つもない。ということは、玉露や煎茶の揉み茶においては、経済的には機械製造のほうが優れているが、品質的には手揉み製造のほうが優れているということであり、碾茶においては、経済的にも品質的にも機械製造のほうが優れているということにほかならない。現在では、碾茶用焙炉小屋が残っていないので手製碾茶製造は再現できないし、その技術を伝える人もいない。
碾茶
碾茶は又、点茶、抹茶、挽茶、薄葉、広葉など称せられ、主として粉末となして飲用する目的をもって製造する。碾茶とは製茶分類上前記のものを総称しその粉末とせざるもの薄葉、葉などを称し、粉末とえざるものを薄葉、葉などと称し、稀に粉末とせず開葉のまま淹出するものを広葉と称す。
碾茶設備
①蒸釜 蒸準備は普通緑茶の場合と大なる相違なく、玉露に比し一層豊富強力なる蒸気量を要し、鶺鴒釜の口径大なるものを用い竈の築造も熱効率良好なるものを用う。 ②碾茶の焙炉室は則碾茶の乾燥室なりと称するを得へく、依て室内温度を相当高くするため保温と火災防止の目的を似て四方の壁は厚く塗るを普通とす。柱も天井部も凡て壁を塗り固むるものあり従って排気に関しては考慮さるることも極めて少なきも、近時之に着眼し、二重屋根、天窓、時計窓の類を設けて排気調節するもの多し、焙炉の上部に棚を架し、多数の練り助炭を並べて長時間練り乾燥を行うに便す。練り助炭の大きさは、平時積み重ねに便なる為大小各種使用すれども、幅一尺八寸長さ三尺深さ三寸内外のものを多数準備するものとする ③焙炉 焙炉の築造は普通緑茶のものと大差なく其の寸法は稍大なり。焙炉框内部5尺6寸 幅2尺9寸 框の深さ3寸焙炉内の深さ1尺5寸長さ4尺5寸幅2尺炉高2尺1寸現在の碾茶の焙炉小屋は残っていない。薄葉の焙炉場はその部屋自体が乾燥室である。室内を高温に保つため、外の光を採り入れる小窓以外はすべて壁土を厚く塗り、柱や天井も壁土で塗り固める。壁土塗りの天井は土天という。入口は常時閉鎖されている室内は60℃以上の高温である。
碾茶製造の手続
①蒸し 碾茶の蒸は極めて重要なる作業にして、乾燥中揉捻を行わざるを似て蒸作業中に緑茶に於ける揉捻作業にも相当すべき心持を似て箸にて攪拌し、十分に反復してよく練り、葉面全体に箸先を当てしむるものとす。但し、初期ミル芽にありては極めて軽き箸使をなし、蒸し度も玉露と同程度に足り、晩期硬葉となるに従い一層強くし、蒸度も稍過度に之を行うものとす。而して碾茶は特に色沢を尊重すべきを似て、蒸葉の冷却は最も注意を要し、強力なる扇風機を用いて冷却すると同時に、露切りを迅速ならしむ、蒸葉はなるべく停滞を避け少量ずつ蒸作業を行い、且多量の蒸葉を積み重ねることなく薄く冷やし籠に広ぐ。このため碾茶には多数の冷やし籠を準備するを要するものとす。碾茶の蒸し機は昭和24年に京都府立茶業研究所によって開発された京研型碾茶蒸機が最初である。碾茶製造のほとんどは大正時代から昭和初期にかけて機械化されたのにたいして、碾茶から蒸葉しだけは戦後まで手蒸しであった。手蒸の経験のある宇治市五ヶ荘の渡辺さんの話では、中山がすぎて葉が大きく硬くなると裏白が多くなりなかなか染まらなくなる。すると、蒸されて冷まし台に広げられた茶葉を、手に藳草履を着けてバンバン叩いて色を染めたそうである。昔は現在より芽が小さい時から摘みはじめ、茶摘みが始まったら雨の日でも茶摘みを休まなかった。1日でも早く茶を終わらせることが大切だった。それは露芽で製品が悪くなることより、茶摘みを休むことにより茶の芽が硬化し、終い茶が茶にならないことのほうを恐れたからである。その原因の一つには、手製焙炉碾茶製造や昭和初期の碾茶機械製造が現在より能率が悪かったということや蒸機である窯で発生する蒸気量が現在のボイラーより少なかったということも少しはあると思うが、最大の原因は品種園ではなく、すべての園が在来種園だったことによる。ほかの農作物では考えられないことであるが、茶は植え替えることができないと信じられ、茶はすべて実生で育てられてきた。明治41年に杉山氏がやぶ北を選抜するまで茶には品種がなかった。現在の碾茶園はほとんど品種に改植されている。早生品種、中生品種、晩生品種を組み合わせることにより、適期摘採機関が非常に長くなった。そのため、茶の芽の小さい時期から茶摘みをする必要がなくなり、裏白もできなくなった。在来茶園では、早生、中生、晩生が温在しているため摘採定期がバラバラである。江戸時代には茶園の一株一株に紙に印をつけて、その日に摘む株を茶摘みに知らせたこともあった。在来茶園では、茶園のある場所が山手か平地か川のそばかで適期が違った、現在の品種の組み合わせのようにはいかず、良い製品のできる時期が短かった。 ②焙炉準備 各焙炉の木炭の使用量は普通の煎茶玉露に比し遥かに多量を要し、約二貫匁乃至二寛五百匁を焙炉の中央部に蒲鉾形に積、上部を平面に均し其上に衣藁を被点火す。助炭面温度は茶葉を撒かざれば紙面が焦げる位高温にして給葉中にても摂氏120度以上に達することあり、普通、摂氏百度乃至百十度位とす。焙炉での手製碾茶では、助炭面の温度が普通で100℃から110℃で高くても120℃である。これに対して、現在の碾茶炉においては1段目の火炉の上では180℃から200℃の温度である。手製碾茶と機械製碾茶の品質の差は、この温度によってもたらされている。手製碾茶では現在の品質碾茶は製造できない。 ③投入量 一焙炉の一回の投入量は原料、火度、製品の品位等により一定せず。即ちよき原料を用い優良品を製せんとする場合は、助炭面の温度低温となし、一焙炉に撤布する蒸葉の量も極めて少量なる薄撤きとなし、稍稍時間長くして製造すと雖も功程進まず。依て普通品にありえては稍厚撤きとなし、製造末期に至っては最も厚撤きとなすを普通とす。而して一焙炉生葉量は三十匁乃至百匁にして一人にて八個乃至十個の焙炉を担当するを似て、一人一回分三百匁乃至八百匁とす。仕上乾燥は普通一人一人回量を仕上げ焙炉一個に取り、又は之を四五枚の棚助炭に取り絶えず差し替え、乾燥するに応じ漸次豪合併す ④荒乾燥 茶師は与られたる茶葉を一枚の籠に取置き、受待焙炉に助炭を設置すると同時に之を各焙炉に等分するように一掴みづつ配分給葉す。此場合助炭の火度をよく検し、火力強き助炭には稍少なくし配分給葉を終われば直ちに熊手を似て葉を捌きて助炭一面に散布し、此場合茶葉の重なるときは品質を損するを似て助炭面に一枚並びに面、も間隙なく葉の撒かる如く迅速なる手使いとす。次に粘気生する頃、刷毛を似て全茶葉を助炭中央部に集めて更に熊手を用いて茶捌きを行い乾燥平均をしむると共に、茶葉に打僕傷を与え色沢を深緑ならしむものとす、従って優良なるミル芽の少量を投入し低温乾燥を行う如き場合は之を省くこともあり、之に反し硬葉となり色沢の濃緑を欠くものは此の儘静置し荒乾燥度に至るを待つ。此の間時々助炭面を軽く叩きて助炭の付着するを防ぐことあり。又散布不均一にして重なり葉生ずれば、之を手にとりて捌き平均せしむるを可とす。 ⑤荒乾燥の程度 荒乾燥取り出し程度は時間又水分減を標準とする事を得ざれども、焦げざる程度にてなるべくよく乾燥せしむるを度とす。投入量の多き場合又は散布不平均の場合は乾燥度若きにかかわらず焦げ葉を生じることあり。火度強い焙炉にても不平均乾燥を来し易し、要はなるべく手を入れずして平均乾燥度を進むるを良とす。所要時間は十五分之至三十分にして、普通取り出しの適度は茶葉の切れ葉等少なくし焦げ気味となりたる時期を見計い急速に刷毛を似て掃き寄せ、順次全部の焙炉の茶葉を掬い取り平張籠に移し冷却し選り場に送る。一方助炭には直ちに次の給葉をなし、同一作業を繰り返すものとす ⑥選別 選場に於て先ず之を簸出し軽き葉、焦げ葉、等を飛ばし、残れる葉は之を選抜上にて古葉、色かわり等の選別を行う ⑦仕上乾燥 仕上げ乾燥には普通の焙炉を用いるものと棚焙炉を用いるものとあり。普通の助炭にては練炭を用い荒乾燥一人一人分即ち八焙炉分を一焙炉に移す。棚焙炉の場合は成るべく薄く拡げ、絶えず引き出しを差しかえ、乾くに応じ順次合併して仕上げ乾燥度に至らしむ。 ⑧練り 仕上乾燥に於ては末だ乾燥完からざるを似て、荒乾燥焙炉の上部に装置せる棚に於て助炭に拡げ置き充分乾燥し茎部を曲げて折れるに至るは、二号飾を用いて蔓きりをなし、更に上練りと称し十二分に乾燥し、茶箱に収め貯蔵す。