お茶の歴史

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人類がお茶と遭遇した歴史は非常に古く記録では約2000年、神話の世界では約5000年前であろうと推測されている。茶樹は永年性の常緑樹で比較的温暖な年平均気温が13度以上、雨量が年1,500ミリ、弱酸性土壌の亜熱帯地方に多く分布し、植物学的には、ツバキ科カメリア属である。原産地は中国雲南省、貴州省、四川省の三省にまたがる山岳部が原産地であろうと説が定説となっておる。中国に現れる最初の茶についての記録は紀元前59年前漢の時代に記述された「王褒の童約」の一文や見られる。その後唐唐代に陸羽によって著された「茶経」(760年前後)により、当時の茶の産地や加工法、喫茶法が明らかになっている。

日本の喫茶の起源について、歴史的に信頼できうる記録としては、平安初期の日本後期の記述で、815年に嵯峨天皇の大僧都永中忠がさしあげた茶は、中国唐の時代の茶であったと思われる。同年、天皇は畿内及び近江、丹波播磨の国に茶を植えるように命じている。その後、遣唐使の廃止ともに茶を飲む習慣は衰退してしまう。

1191年、栄西により中国「宋」より茶種を持ち込まれたと
言われている。栄西は種子と共に宋の時代の抹茶法(茶の飲み方
)を伝えている。また栄西は日本最初の茶の書物である
「喫茶養生記」を時の将軍源実朝に贈っている。栄西は、
京都栂尾高山寺の明恵上人 に茶の種子を贈り、明恵上人が
栂尾に植えたのが、栂尾茶の始まりである。その後、
明恵上人が宇治に茶をまいたのが、宇治茶の始まりと伝えられる。

南北朝の末に登場をみた宇治茶は急速に名声を高めていく、天下に知られた宇治茶も14世紀

ごろまでは拇尾の茶を本茶と呼ぶに対して非茶と呼ぶに対して非茶と呼ばれていた、

宇治は天下一の茶産地となり拇尾に代わり本茶の地位を固める。当時の宇治茶は贈答品と

してもてはやされた、

 

江戸時代、幕末が使用とする宇治茶は毎年幕巨が使用となって宇治から江戸城へ運んでいた。

これを宇治採茶使と訳し欲に御茶壺道中と呼ばれたものである、現在に宇治市街の大半は幕が直接管理していた。宇治は元来水陸交通の拠点として、首都京都攻防の要として政治上きわめて重要な位置にあったが、伏見城の新設によりその位置は後退したにもかかわらず依然として幕府が長轄した背景に宇治のみ許された下手法による、全国に比類のないてん茶の産地という特殊性にあったと言える。

1973年宇治田原湯屋谷に永谷宋円が、現在の煎茶製法を創製した。その後この製法が全国に普及していったのである。全国各地が宇治の製法に代わりつつあったころに宇治では覆下茶園から摘採した茶芽を宇治製法によって煎茶とする試みが行われていた、ここに誕生する玉露である1835年、江戸の茶商山本翁が宇治の焙炉場で偶然生み出したと言われている。その後、維新の変革により将軍家と宇治茶師との関係が絶え、さらに茶道も一時衰退し、てん茶の需要が減少した。この時、宇治の茶業者・辻利兵衛が玉露製法に手を加え、現在のような細伸、鮮緑なものにした。