京都府南部お茶の里青谷地域

市辺集落の東部に明神橋があります。その西詰に「市辺押磐皇子」と記した道標が建っております「城陽町史」によれば、この皇子がここに居住していたとされ、市辺の地名の由来も、またこの付近を(大芝)と呼ばれているのは「押磐(おしは」にちなんだ地名であると記されています。皇子は履中天皇の皇子で市辺忍歯別皇子や市辺押羽皇子などとも書かれています。「日本書記」によれば、皇子のいとこにあたる安康天皇は皇子に皇位を継続させようとしましたが、天皇の弟泊瀬部皇子(雄略天皇)はそのことを恨みます。安康天皇死後、泊瀬部皇子は皇子を近江国来田綿蚊屋野(滋賀県八日市市)に狩猟に連れ出し、家来に命じて殺害しました。皇子の子億計王・弘計王は逃げて丹波から播磨へ行きそこで隠れ住んだとされています。五世紀半の話です。ところで、市辺の地名の由来は皇子が居住していたことや櫟野辺とも記されたことから櫟が多くあったことなどと言われていますが、前者も後者も残念ながら確証はありません、ただ皇子が居住していたという伝承は古く、本居宣長の「古事記伝」に「市辺は山城国綴喜郡市野辺村と云今あり」と記しており江戸時代にはすでにあったようです。

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皇子の居住地は現在では天理市にある姫宮神社付近が有力視されています。また市辺の地名の由来も「市」は開かれたところ、集落、崖など嶮しい地形などの意味があるようです。市辺の天満神社や西生寺付近にこのような所がありここからきてるのかもしれません。